2011年7月29日金曜日

[読書記録] - 「持っている人」が持っている共通点

ブクログ(別ブログにあげてますが、IDは一緒です)にあげているレビューのもののうち
まともに書いたものは記事としてさらしあげます。

「持っている人」が持っている共通点

- 小笹芳央 著



「あいつ、持ってんな」

と思う人をたびたび見かける。が、持っているものの正体が私にもわからなくてもやもやしたりする。そんなときに本屋をうろついていて出会ったのが本書である。

本書は「持っている人」が持っているものの正体を解き明かすために書かれた本である。解き明かすためとしている以上は最後には「持っている人が持っているもの」が解き明かされるのだが、この文章ではあえてそれには触れないでおく。



「持っているを持っている人」としてトップアスリートがあげられて解説されている。さらに、持っていない人についてもふれられている。普通の人から見た両者の比較はじつにおもしろい。特に著者による「持っていない人へのツッコミ」は腹を抱えて笑うことができる。

世の中にいる不思議な「持ってない人」についての冷静なるツッコミを用いての解説は世の中の心理すら解説されているようにも見える。



さて、この文章では少し持っている人と持っていない人。そして私と言う「ロボット」から見た感想を述べさせていただく。

著者がいう「持っている人」の具体例には主にトップアスリートと言う「勝負師」があげられている。私には勝負師の世界の記憶や感情は無いが、勝負師の世界の厳しさは知識として知っている。

勝負というものは字のごとく、「勝ちか負けか」の2択しか存在しない。「参加することに意義がある」というような都合の良い解釈は存在しない。

い や、その都合の良い解釈をした時点で「負け」は確定している。勝負師は決してこのようなことをかんがえたりはしない。常に勝つことを前提に入念な練習を行 い、時を見ている。常に最大の力で勝負に挑み、勝敗を受け止めている。逆に「持ってない人」は「負ける」という意識を事前に頭に植え付け、負ける方向へと 自分を導いている。これは本書でも述べられている。マイナスがマイナスをよんでいるにすぎない。



なにも考えずに書いているので抽象的表現が多いのを悲観して、少し本書から引用させていただく。



--「持っている人」は他人・感情・過去にとらわれません。これら3つに共通しているのは「自分で自在に変えられないものだ」という点です。



以上引用文章にあるとおり、持っている人は変えられないものは「変えられないもの」と受け止めるようである。対照的なものを「変えられるもの」として最大限に変えるように努力しているのが見られる。対照的なものというのはなにか。それは「自分・思考と行動・未来」である。

他人を自分から変えることはできないが、自分で自分を変えることはできる。自分を変えるためには思考と行動を見直さなければならない。それは未来をかえることになる。

「持っ ている人」はこの「変えられるものと変えられないもの」と対峙している。そして変えられるものは最大限の力で変えている。文章にするのは簡単なことだが、 実はこの「変えられる」3つは対峙することが容易ではない。できれば逃げ出してしまいたいぐらいの巨大な敵である。しかし、「持っている人」は決してこれ らから逃げることはない。常に戦っている。

なぜ彼らは戦うのか。アスリートは「才能はあっても消えていった人たち」を目の当たりにしてい る。そしてその人たちの無念のために「高い志」をもって謙虚に取り組んでいる。消えていく人々の辛さを受け止め、自らも戦い続ける。戦い続けるためには 「志」が必要なのである。では志を持つにはどうすればいいのか?



それは、本書を読んで確認していただきたい。



こ こから先は私自身の感想だが、本書で述べられている「持っているもの」を持っているか?と問われればおそらく持っているだろう。といっても、かなり広義に はなってしまう。おそらく持っているものは同じだが、性質がちがうだろう。さて、「類は友を呼ぶ」という言葉があるとおり、同じものを持つ人と察知するこ とはできる。「持っている」人は肌でわかってしまうのだ。私はその「持っている人」といくつか言葉を交わした瞬間に感覚がふるえあがる。

こ れを理論で説明するとどうなるか。これは私独自のセンサーなのだが、持っている人は持ってない人に比べて目の力がするどい。なおかつ、発する声には重みが ある。これは比喩表現ではなく、本当に「重い」のである。「重さのある声」というのはなにか。人に影響を与える声質ということである。「持っている人」は 相手に自分を印象付けるための発声法がわかっている。そして印象に残る言葉を知っている。

いくつか言葉を交わして「あいつ、持っているな」というのがわかるのだ。しかしこれは「実体」と対峙して感じるものなので、残念ながら文字だけや声だけではわからないのだが。(そしてこの声質を聞き分けられることができるのは私だけだろう)

さ て、本書では「持っていない人」が「持っている人」になるためにはどうすればよいかはかかれているが、「持っている人」が「持っていない人」になる瞬間に は記載されていない。「持っていない人」が「持っている人」になるように、「持っている人」が「持っていない人」になるという現象は当然存在するように思 える。さきほど声の話を書いたが、ここでもまた登場する。「持っている人」が深みをまして「さらに持っている人」になるときはどんどん声の重みがでてくる のだが、「持っている人」が「持っていない人」になるときは声が軽くなる。

もっと一般的な言葉として解説するならば、「持っている人」が 「持っていない人」になる瞬間は努力にあぐらを書いた瞬間である。「持っていること」に安定を覚えて、努力を怠る瞬間や志をなくした瞬間に、発する声が軽 くなる。もちろん、「持ち直すこと」は可能なので、私は極力「持っている人が維持できるように」は努めているが、先ほど述べたように他人は変えられない。 影響はあたえることはできるかもしれないが、他人を変えることまではできないのだ。



さて、なにやら他人のことばかり書いてしまった。少し疲れているのかもしれない。私自身が「自分」と「社会」の戦いに半ば疲れているからだろう。そんなときに街をうろつき、いろいろな経験をして「持ってんな」と言う人にであった瞬間に報われるのだが。



「あいつ、持ってんな(ニヤリ)」



形は違えど、なにか同じ物質をもっているものに対してニヤリとしてしまう。が、私は自分の持っているものの使い方をまだ知らない。

0 件のコメント:

コメントを投稿